読了。コピーで新しい小説世界に向かう
と煽られているだけあって、確かにこれまでの村上春樹小説とは違った印象を受ける部分がいくつかある。例えば、徹底して排除されている過去形。例えば、明確でない主人公。今回は、僕や俺や私の視点ではなく、三人称で物語は語られる。
その中身には馴染みあるモチーフが並んでいる。問題を抱えた女。象徴的な音楽。失われたものと、失われつつあるもの。平和そうなすぐ先にある本能のように根源的な歪み。こまかな食事描写。真夜中から始まった物語は、夜が明けるまでに展開を見せ、あるものは望まれる方向に進み、あるものは望まれない方向に進む。決して遠くはない、今にも話を聞きそうな日常とささやかな出来事。それを視点が追いかける。
優秀な姉をもった普通の妹。『白雪姫』の姉はいつだって美しく、そして優秀だ。比べて自分のなんと普通なことか。いつから妹がそんな風に始めたのかは定かではないが、姉と妹の距離は、もうずいぶんと離れている。お互いが何を考えているのかまるで解らない。そして姉は眠りにつく。長い――比喩ではなく本当に長い――眠りに。
眠っている姉は、そのことを除けば至って普通だ。食事もするようだし、トイレにも立っているらしい。その美しさも変わることなく、しかし姉は眠り続ける。まるで『眠り姫』のように。むしろ前より美しく感じる、と妹は語り、そして同じ家に居るかと思うとうまく眠れないのだ、とも漏らす。彼女にとって、姉はもはや理解不能のモンスターだ。
しかし、いくつかの事件を経て、妹は姉の元に戻ってくる。ほんの些細なきっかけが、妹を姉と同じベッドへと導く。そしてかわされる小さなキスは、姉を目覚めへと導いていく。
そのきっかけを作った男は夜中のオフィスで一人、仕事することを常態としていた。神経を使う仕事は一人でやるほうが効率が良い。邪魔されないことこそがその秘訣なのだ。そのための儀式であったはずのセックスも売春婦によって邪魔されてしまった。物事が予定通りに動かない。それこそが男の最も憎むところだった。
しかし物事が予定通りに動くことの方がめずらしい。そうならないように、たとえずれてもすぐに軌道修正できるように、周到にあらゆる用意と惜しみない修正を徹底して冷徹に処断する。それが男の得意とするところだった。しかし今日はうまく立ち回れなかった。なにかが男の中で燃え上がった。あふれ出すように、押さえきれずに。
それでも男は冷静に対処する。それは男と得意とすることだ。どのような事態になろうと、それを一つずつ、ていねいに解決していく。手間と時間さえ惜しまなければトラブルは理論的に処理できる。優秀なのだ。しかし、男は人の居ない真夜中のオフィスで働くことを好み、その合間に娼婦を買うことを常としていた。どこか、歪んでいた。
そんな男の態度に僕はぞっこんだ。恐らく男はソフトウェア・エンジニアに近い立場だ。物事をスムーズに動かすために、より効率よく動かすために、何かしらのシステムをコンピュータ上に構築し、それをうまく運用していくことを仕事としている。そんな人物。リスクを見積もり、それに先だって対処しながらも、起きてしまったトラブルに対処する。想像力と現実を冷静に受け止める感性を持ち合わせていなければつとまらない仕事だ。
そして、そんな仕事につく者達には完璧主義者がお似合いだ。物事が万全でなければ気に喰わず、物事をどこまでも予想し、必ず対処できると信じてはいるが、一方でうまくいかないことも知っている。トラブルに嬉々として備えながら、しかしひとたびトラブルが発生すれば、それを憎まずにはいられない。そんな価値観の持ち主が。
物語中ではあまり出てこない男ではあるが、彼の放つ存在感は僕には無視できない種類のものだ。例え姉妹がどうなろうが、僕は男に肩入れしてしまう。多分それは、遠い世界の話ではない。